昭和20年代までの港南台は、山林・田畑の中に百数十戸の専従農家が点在する、未開発の緑豊かな田園地帯でした。
昭和30年代、横浜国際港都建設計画(横浜市の都市計画)に基づく日本住宅公団施行の土地区画整理事業による横浜市南部の大規模な宅地開発が計画されました。この区画整理事業は、洋光台と日野の2地区の事業に分かれ、南横浜バイパス計画道路(現在の横浜横須賀道路)を境に東側が洋光台地区、西側が日野地区でした。
事業は洋光台地区が先行して、引続いて日野地区も着手されました。
また、当時建設工事中の国鉄根岸線(桜木町〜大船間・当初は桜大線といわれていました)が、両地区のほぼ中央を貫通し、両地区内に「矢部野」「湘南日野」の2駅が予定されていました。根岸線は昭和39年5月に桜木町〜磯子間が開業し、昭和45年3月には磯子から洋光台(矢部野から改称されました)間が開業しました。
残る洋光台〜大船間は昭和48年4月に開通し、港南台(湘南日野から改称されました)・本郷台の2駅が開業して、根岸線が全通しました。